直感日記

「これがやりたい」その声は、きっと未来の私の声。だったらそれは、私にとっての羅針盤。ドキドキするね。

カンボジアの大虐殺について書いた

カンボジアプノンペン

トゥール・スレン虐殺博物館
というのを知っているだろうか。

 

カンボジアと言えば、

世界遺産アンコールワット

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誰もがそう言うだろう、

カンボジア最大の遺跡である。

 

でも、今日取り上げたいのは

たった30年前に起きた

カンボジア人の大虐殺である。


正確な数は分かっていないが

4年間で国民の4分の1〜3分の1

国民の200万人以上の人が
想像を絶するほどむごい拷問の末、

殺された。

 

カンボジア人の手によって。

 

しかも、兵士はみな、子どもだった。

 

ポルポトという名前を、

聞いたことのある人は多いと思う。


ポルポト率いる《クメール・ルージュ

彼らの理想はあまりにも

無茶苦茶なものだった。

 

トゥール・スレン収容所は

プノンペンの中心地にある。

ここは今博物館になっていて
日本語音声ガイド付きで、

館内を見て回ることができる。

 

収容所で働く人や収監された人の
当時撮られた証明写真がずらりと並ぶ。


殺された直後の写真や、

収容所から生きて帰れた人が
後世に伝えるために描いた絵、

実際に使われた拷問器具など

当時の残虐な実態を知ることができ、

全てを見終わるのに2時間以上かかる。
なんと言ってもここが
多くの人が拷問され、殺されたその場所。

キリング・フィールド。
この事実を受け止めるのは辛かった。

ここから生還した人はたった7人だ。

 

 

それでは、時代背景を見ていこう。

Wikipediaより)


当時、カンボジア

ベトナム戦争の被害を受けていた。

当時の国王シハヌークは反米を貫いており、

アメリカは親米勢力と手を組む必要があった。

1970年シハヌークが国外に出ている間に

議会で将軍ロン・ノル

首相に就任することが決まり、

アメリカの援助を受け、勢力を拡大していく。

 

その年、シハヌーク側とロン・ノル側の

武力衝突が起き、多くの死傷者が出る。

カンボジア内戦は続き、

アメリカ軍は農村部へと爆撃をしかけ、

農民は難民としてプノンペン流入した。

もともと食糧の豊かであったカンボジア

深刻な食糧不足になった。

 

1973年パリ協定により、

米軍がベトナムから撤退したことにより、

カンボジアも一旦平和が訪れた。

ポルポトが新しく政権を握り、

ロン・ノル政権は崩壊した。

ポルポト率いる《クメール・ルージュ

という共産主義勢力はプノンペンを陥落し、

国名を《民主カンプチア》とした。

 

ポルポトの登場にプノンペンの農民たちは

希望を抱き、喜んだ。

 

しかし彼の理想は、
《原始共産主義社会》だった。

 

もう一度0から国を作り直す。

その言葉には希望が託された響きがあるが

それは、悪魔の始まりだった。

 

クメール・ルージュの方針は、
全ての国民を農業に従事させること。

プノンペンなど都市部に住む人たちは
全員農村部に移され、強制労働させられた。

国民はみな、農民となったのだ。


医者、留学経験者、先生、知識人など
反対勢力になりそうな者たちは
真っ先に、一人残らず殺された。

年寄り、障害者、赤ちゃんなど
使い物にならないとされる者も同様だった。

 

アンコールワットなどの遺跡の破壊も、

クメール・ルージュによるものだ。

文化に価値はないのである。

 

学校を閉鎖し、一切の近代科学を否定した。

また、貨幣制度も廃止、宗教の禁止、

一切の私有財産を没収した。

音楽などの娯楽や男女交際も否定された。

 

それらを疑われたものは

自白を強要され、拷問にかけられた。

いや、収容所に連れて行くのに
理由などいらなかった。


農業の強制労働は過酷だった。

資本主義の発展で生まれた

大きな農業機械は一切使えず、

すべて手作業で行われた。

1日19時間の労働とも言われている。
ごはんはわずかなお粥を1日2回。

飢餓や栄養失調、過労で亡くなった人も多い。


ポルポトの言葉を引用しましょう。


我々は独自の世界を建設している。
新しい理想郷を建設するのである。
たとえ親であっても
社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
今住んでいるのは新しい故郷なのである。
我々はこれより過去を切り捨てる。
泣いてはいけない。
泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。
笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。

 


ポルポトは子供たちを徹底的に洗脳した。
収容所の看守も、兵士も、

医師でさえも子供にやらせたという。
医師と言っても、知識などなく、

知識があったとしてもバレたら殺される。

彼らは麻酔なしに手術を行ったり、
鞭で打たれ続けた背中に塩水を浴びせたり、
さらに苦しみを与えた。
叫んではいけない、というルールさえあった。
叫んだものにはさらに罰を与えた。


この残虐な行為を口外しないためにも、
すべての人は殺される以外の選択はなかった。

実態を知ってしまった以上、

生きて帰されることなど許されない。


それが4年間もの間続いた。
そして1979年ようやく最後が訪れる。


カンボジアから亡命した人たちが
ベトナム軍と共にカンボジアに攻め込み、
ポルポト率いるクメール・ルージュ

タイ国境付近のジャングルへ亡命し、

ポルポト政権は終わりを遂げた。

 

その後1997年、ポルポト

政府との和解交渉を試みた

ソン・センとその一族を殺害したことにより

終身刑となるも、

心臓発作で亡くなったとされる。

 

 

第二次世界大戦が終わり、

日本には平和が訪れ

国民は自由に、豊かになっていった。

 

しかし、こんなに近くの国で

恐ろしい事態が起こっていた。

 

今、カンボジアを歩いていても

高齢者の姿はあまり見かけない。

カンボジアの平均年齢は25.6歳(2017年)

平均寿命は69.0歳(2016年)とされている。

 

ちなみに日本の平均年齢は46.35歳(2015年)

平均寿命は84.2歳(2018年)

どちらも世界1位である。

 

日本は、平和で国である。

しかし今もなお、世界のあちこちでは、

戦争で苦しんでいる人がいる。

 

それを決して忘れてはならない。

過去の出来事も忘れてはならない。

より良い未来を作るためには

知ることから目を背けてはならないのだ。